映画「沈黙」 とある仏教徒の視点から

宗教映画「沈黙」を見て来た。

私はクリスチャンではなく、瞑想の実践を重んじる、とある仏教一派の一人である。

私の師が、この映画の感想を送って来たので、

気になって見て来たのだ。

ちなみに師は、カトリックの神父と共同で瞑想会も主催している人である。

まず、クリスチャンがこの映画を撮影したことに敬意を表する。

沈黙は、カトリック賛美の映画ではなく、問題提起の映画だ。

そして、脇役の一人にまで細かく設定のある、緻密な作品であり、寛容で配慮に満ちた作品である。

賛美の映画ではないゆえ、陽の目はあまり見ないだろうが、おかげで全ての宗教が普遍的に持つ問題への提起となっていると感じた。

歴史上、預言者はすべて迫害されている。

マホメッドも、決して順風満帆であったわけではない。

このような映画を作るのに勇気を要しただろうし、緻密さから、相応に熟慮して作り上げたものと推測する。

重い問題をスルーせず、真っ向勝負した所が素晴らしい。

その重い問題とは、「形のあるもの」と「形のないもの」の取り扱いである。

これについては後述とし、まずは時系列にそって感想を述べる。

◆まず、最初、虫の声から始まる。

◆そして雲仙での迫害。

飯嶋和一の「出星前夜」にもあるような残虐な拷問の予感に身構えたが、そこは必要最小限にとどめてあって、ほっとした。暴力描写は金と娯楽になるが、そのような安易な手法をとらなかったことに、序盤から安心できた。

拷問に加担する役人たちがやりきれない表示をしているのも胸を打つ。

誰が悪いわけでも憎いわけでもない。みんなこんなこと、したくないのだ。

◆続いてイエズス会の描写。

正直、私から見ると、頼まれもしない外国に布教に来ること自体が余計なお世話なのだが…。

宗教と政治が絡むと、ろくなことにならないと、序盤で暗示しているのがすごい。

◆キチジローとの出会い。

彼のような弱きものこそ救われるべきであると思うのだか…。

2人の神父たちはなかなか慈悲を向けることができない様子。

神父たちもキチジローたちもマカオで楽しく暮らせてれば…

◆日本上陸。

隠れつつもキリストの教えを伝えて来た村人たち。神父の登場に、抑えつつも異様な興奮。「形あるもの」「わかりやすいもの」「自分に都合のよいもの」に執着する民衆たち。怯える神父。

しかし、罪の告白を聖職者にして、聖職者が聞いてあげるというこのシステムは素晴らしいと思う。瞑想と並んで、人類の大きな発明では?

仏教にはこういう対話システムはないので正直羨ましい。

◆隠居生活に耐えられない神父たち。

なるほど、彼らはこういう場所で座って瞑想しないのか。

◆そしてキチジローの故郷、五島列島へ。

「形えるもの」を欲しがる民、怯える神父。

仏教でいえば、ダルマでなく偶像、空ではなく色に執着している。それでは真の安寧は得られないだろう。

民が善良であるだけに悲しい。

◆キチジローの過去。

踏み絵はできない。でも死ぬ覚悟もない。弱く無垢なキチジローの家族が苦しみと共に残酷に殺される。それを見るしかできないキチジローの姿がただ悲しい。

どうしようもない奴であるキチジローの苦しみが悲しい。懺悔が救いになっているのだろうか…

◆ふたたび村へ

役人が来て長老を捉える。

役人も冷酷悪人ではない。村人が善良であるのもわかってる。

でも、規則を乱す奴は、排除しないとならない。キリストの教えが問題というより、彼らの裏にある国と、組織だった行動が問題なのだ。

村人たちが個々でひっそり信仰してたならこんな事件にはならなかっただろう。

仕事人としてなら、私も役人たちと同じ判断をするだろう。多くのために少数を切り捨てる。それが世俗のルールだ。

ただ役人も、迫害が楽しいわけではない。迫害は面倒で心が晴れないことなのだ。だからうまくごまかしてみせて、静かにしていてほしいのだ。

だがその思いは村人には届かない。それが悲しい。

神父に出て行ってもらうかで村は揉めるが、神父を守ることにした村人は、長老と敬虔な信者2人のほか、あと1人を犠牲に出すことに。ここでよそ者のキチジローを推す村人と拒否するキチジローで争いが。やっぱり死にたくない。信者たちの本音が見える。

◆モキチ

敬虔な信者のモキチは、感謝の言葉とともに、みすぼらしい十字架を神父に与える。モキチの信仰に応えられるだけのものを与えられただろうかと涙する神父。ここは泣いた。

モキチが神父に渡した十字架は「形あるもの」だが、実際に渡されたのは「形のないもの」だろう。

村人たちは踏み絵にのぞみ、神父のいうとおり踏む。が、続いて十字架に唾を吐いてマリアを淫売といえと言われ、キチジロー以外はできない。

波高い海に磔にされる一同。

神への言葉を唱え死ぬ長老。賛美歌を歌いながら四日間苦しみ、死んだモキチ。

神父も村人も見守るしかできない。悲しい。

ここでも役人たちはまったく楽しそうでなく辛そうなのがまた悲しい。

◆再び五島へ

村人たちを危険から避けるため、2人の神父たちは別れ別れに。主人公神父は五島へ。

だが、かつて訪れた村は壊滅。神父と接触したために滅ぼされた?

その後、キチジローに助けられ、そして敵に売られる。

キチジローは悪びれず、ひたすら許しを請う。まるでユダのくだりのよう。

捕らえられ、貧しい百姓キリシタンと会う神父。現世があまりにつらく、死んだらパライソに行けるということを支えにしている百姓たち。

それはキリストの教えと違うけど、誰がノーと言えるのか?肯定する神父。

◆日本の役人と対面

英語で話す役人、母国語で通す神父

百姓を、自分で何も決められない愚か者と評する幕府の高官、井上様。

それが民であり人間、迷える子羊で救われるべきものですよね。我々ホモ・サピエンスの特性でもある。

流暢に異国語を操る通訳は、神父から言葉を学んだという。が、自身の師を、日本語を学ぼうとせず日本のもろもろを軽蔑していたと評する。

そう、この一神教の傲慢さが、日本人は嫌いなのさ。

教えの内容や神父個人の資質ではなく、組織的な問題なのだろう。

宗教が権力と結びつくこと、形あるものを追い求めることは、本当に醜いものだ。

主人公を他の奴らと同じで傲慢、転ぶだろうと評する通訳。

はげどう。

傲慢=正見がない、自分しか見ていない人が、正しく世界を見てない人が世界を見たら?

◆牢獄

幕府側には何人も異国語を話す人がいるのが印象的。いきなり串刺しとかしないので、かなり友好的な印象。

でも当然つっぱねる神父。この一神教のマッチョさはウザいと思うと同時にすごいとも思う。基本仏教にはこういうマッチョさはないので。

教えを習いに異国へは行っても、布教はしないし、こういうふうになったら素直に従うような。現ダライ・ラマの態度が示すように。

でもチベットでも皆がダライ・ラマと同じではない。いろんな事情もある。

世の中難しい。

踏み絵。

役人たち、ここでも、形だけだよ、ちょっと踏んだら解放だからと、信じられない好条件を示すが、百姓たちはできない。

彼らはあまりに無垢で、それゆえ未来への知見がない。

だから苦しむ。…ひどい。

百姓たちが1人残して撤収。彼は番人と世間話してる最中に、いきなり斬首。泣き叫ぶ百姓たち。

ここでも死への覚悟はないことがうかがえる。

とばっちりを食うのはいつでも一番弱い人たちなのだ…。

◆またまた役人と対峙

キリシタン問題の背後に国際問題、政治問題があることが明らかに。神父はイマイチわかってない様子。日本ではキリスト教は根付かないとも。この辺はなぜなのかイマイチ自分はよくわからない。シリアスな仏教だってあんま根付いてない。神道も形骸化だし。

曖昧な文化だから?

◆同僚の死

今日は海辺へ。

案内する役人の笑顔がなんともいえない。

そこへ同僚と百姓が。簀巻きにされる百姓。転ばず、百姓を追いかけて死ぬ同僚神父。もはやプライド根比べな気もするが。

◆師との再会

寺での再会。

ここでの仏教描写、我が師は醜悪と言ってましたが同意。まさに形骸。形あるものだけを追いかけた、なれのはてという印象…辛い。

これがたまたま再現したらこうなったのか、狙ってやったのかわからないけど、どっちでも辛い。

師と神父で語られてることが、形あること、ないことについてなので、余計来る。

形とかマジでどーでもよくね?

仏教があるからキリストいらね、と言われても、非常に微妙に感じた。

◆転び

恐れていた穴釣り描写。そこまでエグくはなかったが、助けを求める百姓たちの苦悶の声が辛い。

覚悟を決めた、自業自得な方々はおいといて、そういうのがなく、なんとなーく流され巻き込まれた無垢なる人が苦しむのが辛い。

神父は転ぶ。

◆その後

日本人として余生を送るが…

召使いのキチジローがもっていたもの、そしてこの神父が死の間際持っていたもの。

形ないもの、人の心なんて、他人からはまずわかんないよね。

◆まとめ 「形のあるもの」と「形のないもの」

信仰。

我々仏教徒なら、ブッダの教えであるダルマへのコミット具合や、日々座って瞑想してることとか。

そういうのは外から見えない、見えにくい。

なんらかの儀式や特徴的なもので、ある程度可視化はできるかもだが、一番大事なものは見えない。

なぜなら、一番大事なものは形のないもの、物質的でないもの、色でないものだから。

これはキリスト教とか仏教とか、宗派問わないものだろう。

この、一番大事なものは見えないというのが罠だなあと思う。

三大宗教は、偶像化を固く戒めてたはずなのに、イスラム以外は見事に偶像化しまくっている。

人は、放っておくとわかりやすい形を求めてしまう生物なのだろう。

この映画は、

信仰や戒律、ある教えといったものを、

人生の最も大事な柱に据えた時、

誰もが直面するであろう問題を描いていると思う。

世の中は不平等で苦に満ちている。そんな中、

死と、苦しみと、どう向き合えばいいのか?

我々は嘘をつけるので、心の中は可視化できない。大事なものは見えない。

どうやって、自分がコミットしているものを実現し、向き合っていくのか?

重い問題を突きつけられたなと思う。

自分の場合は、あらためて瞑想で得られる智慧、正見を、大事にすること。

日々、気づいて生きること。

そのために戒律を守ることだなと思った。

また、自分は踏み絵は平気だろうが、蚊を殺せと言われたら…苦労すると思う。できるだろうか?

なぜなら不殺の戒律が我々にはあり、私はそれを日々まもっているからだ。

けど、普通の日本人は夏になるとバンバン蚊を手で潰してるわけで、まさに蚊を殺すか否かなんてどーでもいい問題だろう。

だが、他人がどう思おうが、自分はきっと辛いだろう。

私は、不殺の戒律を、とても大切なものと考えているからだ。

このように、宗教で大事なことは、その宗教と無関係な人にとっては、どーでもいいことなのだと思う。

けど、その宗教の人にとっては、そのどーでもいいことは、人生の大事なものを凝縮したようなものなのだ。

それこそ形だなとも思うが、我々が大事なのは、入れ物ではなく、中に入ってるもので、でも、その中に入ってるものは、なんていうか形あるものである器がないと存在が難しかったりするのだ。

この、形あるものと、形ないものの区別が繊細なので、我々は苦労するのかもしれない。

私の場合は、瞑想でもたらされる正見が助けになると知ってるので、座るしかないなと改めて思った。

そして、信教の自由はとても大事なことだ。

すべてのひとの形ないものが尊重される世であってほしいと改めて思った。

わたしが幸せでありますように。

わたしが苦しみから救われますように。

このわたしは、個別IDを持つ私であると同時に、これを読んでいるあなたでもある。

映画の中の人物たちが、苦しみから救われていますように。