一法庵活動 近況

最近

福島リトリート&目黒不動尊の瞑想以来、仕事や夫の食中毒やらでバタバタしましたが。

おかげで仕事は順調に快適に回るようになり、今度こそ一法庵ライフが戻ってきた感じです、やった!

まずは個人的な近況。

福島リトリート後から、

朝のアサナはウジャイをあらためてしっかり、ジャンプバックもいれる!

夜座るときは必ずプラナヤマを入れる!

でやってます。とてもいいです。

アサナはスリアナマスカラ(ジャンプバックあり)〜壁を使ったトリコナアーサナ、ダンダーサナからの前屈、開脚。バッタコナーサナ、簡易バックベンド、簡易ヘッドスタンド、肩立ち、鋤のポーズ、パドマーサナ、シャバでやってます。

足指足裏とウジャイを大事に。

座りポーズのジャンプスルーはしてませんがいずれやるかも。ちねみに今はスリアのラグでやってます笑 全然問題なし。

やはり丁寧に呼吸しながらある程度の強度を入れてアサナするのは、本当に得るものがありますね。瞑想にも改めて好影響です

夜は、プラナヤマの基本。これをやることで、世俗で受けた呪い笑が綺麗に解け、いきなり深く体の中へ入っていける(最近はいきなり体の中から感じられるようになってきた)。そして呼吸の出所や機能も深くわかるようになりました。

これ自体は瞑想を深めることに直結しませんが、毎回いろんな気づきがあるのですごくあいいです。瞑想も早く深くに到達できるし。

そして、今初めて、6年前、瞑想で大きく人生が変わってから。

人様、仲間のパフォーマンス管理に概ね集中できる状況になりました。

今回は、みんなが効率よく仕事できるようにすること。そして、みんなの水平方向の関係性を平穏にすること。

特に後者がメインテーマです。

瞑想で深い次元にいくようになって何が変わったかというとあまり怒らなくなった、怒っても引きずらなくなった、憎しみを抱くのは不可能になった、ということです。

ここにエネルギーを取られないととっても平穏に暮らせます笑

そして、周りを見てる限り、みんな日々、傷つけあって傷ついて。怒り憎しみに囚われている。

なので自分のチームはなるべくそういうのと無縁にしたいと思いました。

で、そこに注意して、そして自分は本質的には怒らないのでどーんと構えていたら。すごく雰囲気がよくなり、顔も変わってきた。

リーダーが怒らない、憎しみを抱かないってすごいいいことなんだなと改めて感じてます笑

ていうかみんなの怒り憎しみを私のとこで止められるのね。新たな発見です。

ただ、これも、みんなの管理にわりと集中できてるからかなとも思います。実務もかなりこなさないととなったら難しいかな。

自分は瞑想に何だか向いてるみたいで、もしいい完全プロ向け修行場所があったら、もっと瞑想を極めて見たい。瞑想だけにコミットしたいという気持ちは正直あります。

でもこの世俗のハードモード笑

ここで実験するのは本当にエキサイティングで厳しい。

だからこそ、最近、先生が再びおっしゃいだした菩提心を持って世俗で生きていこうと思ってます。

6年前、人生が変わった時、先生に言われました。

自分の人生の問題が瞑想で片付いたら、その功徳を独り占めしてはいけないと。

その通りだと改めて思う次第です

2回目、2年ぶりの福島リトリート@一法庵  

 

■はじめに

一回目は事業買収で新会社への転属を直前に控えた時期。

自分の事情もシリアスならば、場の雰囲気もわりと緊迫感があり、修行という感じでした。

それでも宿の食事の良さと温泉があることは印象に残りました。

今回は、異動のおかげで仕事が得意分野になり、休みがコントロールできるようになった状況。

術後明けの猫のこともあり、遠出は取りやめたゴールデンウィーク。その分リフレッシュしたいなあと思い、仕事の調整も楽だったので、参加。

つまり目的はリフレッシュですw

前回、宿の温泉は一日一回しか入らす、あまり印象がなかった私。

今回は温泉を楽しむこと、座禅の眠気は一切気にせず食事を思い切り食べることは最初から決めていましたw

お風呂と食事が気に入ってる宿(要は一週間くらい休みが取れたらまるまる滞在したい宿)に倶知安ニセコワイスホテルがあるんだけど、ここ裏磐梯、早稲沢温泉の湯流里も、食事とお風呂がとっても気に入りました!

天の川も見えるくらい星が美しいそうで、プライベートでまた訪れたい…湯治に来たい…です。

■初日 2017/6/1(木) 

新幹線で郡山へ向かいました。

郡山の駅弁@のり弁がとってもおいしくて、大満足!

その後、磐越線で猪苗代駅へ。

そこからバスで諸橋美術館へ。

前回は中に入らなかったんだけど今回は入りました。

ここは、ダリの彫刻や絵がいっぱい。

人も少なく、いろんな角度から彫刻が見れて、すごいよかった!

いろんなところにいたうなだれた天使、白鳥とゾウの灰皿、人間チェスト(のような題名だった)、スプーンだらけの闘牛士、リプロ@ギリシャ神話のレダ椅子(足がハイヒールになっている)、朱色のミドルヒールの中にいろんなものが入ってるオブジェが好みでした。

ダリは有名なぐにゃ時計が好きでなく、興味なかったんですが、改めて見るといいですね。

あと、奥の休憩スペースの椅子と、そこから見えるお庭が素敵だった。

まわりの野生の藤もきれいだったな。

そこから宿の湯流里へ。

新緑と、鶯、カッコウの声が美しい。

部屋は洋室で快適。

温泉は透明でにおいもなく、水道水?という感じ。

が! あがるとすごくあったまる!疲れもとれる。源泉かけながしで湯量もある。露天風呂の景色がすばらしい。お湯質と露天風呂がとても気に入りました。

オリエンのあとは山菜たっぷりの食事。熊も大好きという細身のタケノコ、良い香りのウド、自家製味噌の汁物。どれも本当においしい。

早くも来てよかったなあと思う。

その日の座禅もいい感じ。

そして爆睡。

■一日目 2017/6/2(金)

4:15に起床。

最初はいつものようにヨガ、お経、微細な感覚から。

いつもの感じで問題なし。

座禅も気づけば6年のつきあい。

入れないときは入れないが、入れるときはすぐ入れるし、入れないときがあまりないのが現状。

朝ごはん。普通に残さずたくさん食べる。

ちなみに量は多いけど、山菜などが多いからか、お通じもわりと普通。

その後、さっとお風呂。

朝食後の慈悲の瞑想。

アナパナ。

とくに問題なし。

雨音がなかなかすごいが、癒される。

雨のためウォーキングメディテーションではなくて、ヨガ。

ゆるめだけど、体はほぐれるし、こういうのは好き。

昼ごはん。

普通に残さず食べる。

その後、浪江町の人たち4人の話。

311から6年。

二人は、家のダメージが小さいことなどもあり、ふるさとへ帰還。お二人とも平屋のお家だったそう。

二人は二本松の復興住宅へ引っ越し。

つまり、6年で仮設住宅は役目を終えることになるらしい。長っ!

最初は二年だったのがズルズル伸びたのだが、今となっては仮設卒業がちょっと寂しいのだとか。人間の受け入れ力ってすごい。が、それに甘えるのは違うと思うぞ…政府…。

福島内でも浪江の人への差別がある(お金もらってるんだろうとか言われる…)。

浪江はほかの2町と違って、町の方針から、東電の恩恵を受けなかったらしく、2町といろいろ差があったそう。

以下、ざっくりと感想

問題となる地域そのものでなければ(つまり当事者でなければ)距離の遠近関係なく他人事という面があるのかな/世の中いい人そんなによくない人に分かれる/人間の受け入れ力の懐の深さ/国も役所も信用できない/組織の末端はどこでもつらい/東京で使う電気を作っていた福島で事故が起きて福島だけが大変な目にあって東京は無視、理不尽ひどい/被害者の保障がやっぱりしょぼいと思う…自分たちが同じ目にあったら(快適なマンションを失いペットとも別れ離れとか)切なすぎるし納得いかないだろう/事故が起きない想定でいて、でも起きちゃったので、全部打つ手が微妙って…リスクヘッジとらないのはお国柄なのか?

その後、風呂。

座禅

ガチで寝る。

というか足が痛い。

1柱だけだと、長時間でも足が痛くなることはないけど、何柱も座ってると、だんだん足の痛みが出てくるようになる…

座り始めたころの強烈な痛さではないけど、最近は足の痛みと無縁だったので耐性が…。つらい。

ヨガ&プラナヤマからの座禅

ばっちり!

プラナヤマからの座禅で入れなかったことって今までないです…

雨がすごいけど、雨音が美しい。

この日のプラナヤマのラストはウジャイ。

一法庵に初めて来た頃、熱心にアシュタンガを練習していたんだけど、アシュタンガは常にウジャイ呼吸。

このウジャイが大好きだったな、ウジャイの音を聞きながら自分を空っぽにする感じ、自然に体が動いて伸びる感じが好きだったな、家でやるスリアも昔みたいにしっかりウジャイを大事にしないとなと改めて思った。

反省。

石巻の尼僧さん、風寛さんとひさしぶりの再会。

お元気そうでよかった!

そして風呂。

インタビューは、ある状態になると、呼吸を見失うことはない、これからは呼吸を見続けるようにしよう、というような内容で、正直、なんでそんな当たり前のこというのか?と、この時はちょっと謎でした。

夜座禅1

先生の話をもとに呼吸を見続けようとか、THATSがどうたらとか意識したが、うーん…。正直さっぱり。

呼吸が見えている状態から座標移動せず…久しぶりの体験。

夜座禅2

確かタイムテーブルが押してたので45分座禅。

先生の話は無視。

足が痛く、足を入れ替えたり安座にしたり立膝で休んだりといろいろした。

入れても足の痛みで持続時間がいまいち。

何度か入れたのですっきりリフレッシュしたけど、最近は入れると滞在時間はそれなりに長めだったのでうーん。

が、45分というのは、体負担がやはり軽くなり、いい。

風呂入って爆睡。

■二日目 2017/6/2(土)

4:15に起床。

風呂。

最初の瞑想は通常運転。満足。

朝ごはん

宿の人が煮物の肉を大盛りにしてくれる…

風呂。

朝食後の慈悲の瞑想とアナパナはさっぱり。ていうか寝た。

食べた食事が重くて、部屋もなんか暑くて酸欠で、

生理的につらかった。お通じがこの日はまだなかったからかも。

ウォーキングメディテーション

ちょっと雨の後で道が悪かったが緑がきれい。

戻った後、無事、お通じあり。

昼ごはん。

普通に残さず食べる。そして風呂。

法話。

昨日と関連して、

これからは呼吸が見えた→外れる→また見えるようになる

ではなく、呼吸を見続けられる状態になると外れないので、呼吸を見続けることを目指そう、的な内容。

前述のとおり、自分には特に刺さる内容ではない。

座禅

まあまあ

ヨガ&プラナヤマからの座禅

ばっちり!

風呂

インタビュー

ビタカ、ビチャーラの話。

禅定の話とか。先生からこういうのが出るのは珍しい。でも、やっぱりそれは形にすぎないので、正直どうでもいいw

THATSとか、いろいろ表現はあるけれど、いつも過ごしている(と思っている)世界とは違う次元のようなものは、それを体験していない人が想像するものとは非常に違うと思う。

基本は穏やかだけど、ちょっと長くいると、びっくりするような現実を感じさせられる。

あるがままの現実は、ある意味冷徹です。

なので、あまりこれについては語ろうと思えない。

自分の中でよほどの確信とか整理がついたら、違うかもだけど。

経験した人はみんなそうじゃないかな。

この次元は般若心経そのままで、自分が人間であることの意味もある…のか、と自分は感じます。

少なくとも自分というものはちっともスペシャルではないし、すぐに消える存在であり、スペシャルであるかないかも、消える消えないも意味がないと感じる。

人間自身は虫や微生物はクズで、人間はそれよりも特別で尊くて、さらに人間の中でも自分が気に入っている人は超絶スペシャルで、もちろん自分自身もみんな超特別と思ってるけど、人間のことをそう思ってるのって、たぶん人間だけだよね

夜座禅1

足が痛い。

寒いし。

さっと足湯。

夜座禅2

うーん、いまいち。

風呂入って爆睡。

■三日目 2017/6/3(日)

4:15に起床。

風呂。

ヨガ。

最初の瞑想はばっちり。

朝ごはん。

寝るのを覚悟して食べる。そして風呂。

朝食後の慈悲の瞑想、ばっちり。

最近は慈悲の瞑想のごく初期に入ってしまうことが多かったけど、今日はあえてガイドどおりに抑えながらやってみた。

なんだろ、改めて深い慈悲を感じ、新たに見えて来たものがあった。

ほんとに座標移動する、感情とか個にまつわるものが消えてしまう。

慈悲の瞑想のときはちょっとストップかけて丁寧に見ていこうと思った。

慣れて来たからこそ改めて基本を大事にしていきたい。

ていうか食事の後絶対寝るから、食事後座禅はどうかと思うと先生に言おうと思ったのに違ったので、やっぱり入れる条件はわかりません

アナパナは慈悲よりかはうーん、かな。

でも気持ちよく座れた。

ヨガ

昼ごはん。

片付け。

最後にみなさんとリトリートの感想をシェアしあう。

みなさんの話を聞いて、先生の話がどういう意味を持つかわかった。 呼吸が見え続ける状態を保つ→その状態を手放す(ジャンプ、ピッチャー交代。移動)。手放すという言葉だとしっくりくるらしい。 確かになあ…。

本当に、この時期この場所で、みんなと座れてよかったなー。ありがたい。

慣れてきたからこそ、今年は改めて基本を大事にする!

毎日のアサナ、スリアからウジャイをしっかりして、ジャンプバックも入れてシャラで練習してたときみたいに丁寧に。

座禅はプラナヤマをかならず入れる。

みんなと座るとき、ガイドがある場合は先に行かずに抑えて待って、その状態で感じてみる。

普段、隙があればマインドフルに。

ごはん。歩くときとか。

あと、父には座禅…ちゃんとやってもらいたいなー。

昔から仏教にはちょっぴり興味あったようだし。

一法庵のいきなり1時間だと心が折れるのは当然かなとも思うので作戦考えよう。

あれ、瞑想入門紹介してなかったかな…座布と一緒に誕生日に送りつけるか。

帰りは法友の車で送ってもらう。

ひたすらしゃべりまくった笑

ていうかとても有意義な話ができて感謝

家で座るのも大事だけど一法庵の集まりも…大事に…していきたい…アクティブでないから自信ないけど。

やっぱりみんなで座るのはいいね!

とにかくリフレッシュ、課題発見と有意義な時間でした。

来年は延泊で参加したいなー難しいかな?

映画 沈黙 サイレンス 補完

◆映画ラスト。

あれを持たせたのは奥方だよね。

少なくとも、奥方に恨まれるような生活ではなかったということか。

わたしの師は身近なパートナーとの関係が大事という。

聖書では、隣人を愛せよと説く。

身近な人を愛する。

簡単なようで、なかなか難しい、当たり前のこと。

少なくとも、神父は、それを達成できたのだろう。それはとても尊いことではないか。

仏教だったら?

そして、仏教にこの物語を置き換えてみる。

まず布教→しない。

踏み絵→絵は偶像なので問題なし。即する。

戒律→どれも他人には遂行してるかどうかがわからないのでまず咎められないような

座禅→寝てるだけにも見える気が…

瞑想→座禅がだめでもいろんな瞑想法があるなでなんとかなりそう

サンガ→これはアウトだろう。けど瞑想は1人でもできるので…

お経→唱えられなくてもまあなんとか

他の宗教→仏教の戒律、ダルマと反するものが思いつかない…よって表向きは〇〇というか瞑想、正見、戒律とのハイブリッドでも問題ない気がしてきた

経典→経典だけが頼りではない、瞑想の実践が大事なのでなんとかなる

結論、なんとかなる!

緩っ!

ていうかこんな地味でとっつきにくい教えがなんでこんなに広まって続いているのかわからない!

現代まで伝わっていることに、本当に感謝しています。

映画「沈黙」 とある仏教徒の視点から

宗教映画「沈黙」を見て来た。

私はクリスチャンではなく、瞑想の実践を重んじる、とある仏教一派の一人である。

私の師が、この映画の感想を送って来たので、

気になって見て来たのだ。

ちなみに師は、カトリックの神父と共同で瞑想会も主催している人である。

まず、クリスチャンがこの映画を撮影したことに敬意を表する。

沈黙は、カトリック賛美の映画ではなく、問題提起の映画だ。

そして、脇役の一人にまで細かく設定のある、緻密な作品であり、寛容で配慮に満ちた作品である。

賛美の映画ではないゆえ、陽の目はあまり見ないだろうが、おかげで全ての宗教が普遍的に持つ問題への提起となっていると感じた。

歴史上、預言者はすべて迫害されている。

マホメッドも、決して順風満帆であったわけではない。

このような映画を作るのに勇気を要しただろうし、緻密さから、相応に熟慮して作り上げたものと推測する。

重い問題をスルーせず、真っ向勝負した所が素晴らしい。

その重い問題とは、「形のあるもの」と「形のないもの」の取り扱いである。

これについては後述とし、まずは時系列にそって感想を述べる。

◆まず、最初、虫の声から始まる。

◆そして雲仙での迫害。

飯嶋和一の「出星前夜」にもあるような残虐な拷問の予感に身構えたが、そこは必要最小限にとどめてあって、ほっとした。暴力描写は金と娯楽になるが、そのような安易な手法をとらなかったことに、序盤から安心できた。

拷問に加担する役人たちがやりきれない表示をしているのも胸を打つ。

誰が悪いわけでも憎いわけでもない。みんなこんなこと、したくないのだ。

◆続いてイエズス会の描写。

正直、私から見ると、頼まれもしない外国に布教に来ること自体が余計なお世話なのだが…。

宗教と政治が絡むと、ろくなことにならないと、序盤で暗示しているのがすごい。

◆キチジローとの出会い。

彼のような弱きものこそ救われるべきであると思うのだか…。

2人の神父たちはなかなか慈悲を向けることができない様子。

神父たちもキチジローたちもマカオで楽しく暮らせてれば…

◆日本上陸。

隠れつつもキリストの教えを伝えて来た村人たち。神父の登場に、抑えつつも異様な興奮。「形あるもの」「わかりやすいもの」「自分に都合のよいもの」に執着する民衆たち。怯える神父。

しかし、罪の告白を聖職者にして、聖職者が聞いてあげるというこのシステムは素晴らしいと思う。瞑想と並んで、人類の大きな発明では?

仏教にはこういう対話システムはないので正直羨ましい。

◆隠居生活に耐えられない神父たち。

なるほど、彼らはこういう場所で座って瞑想しないのか。

◆そしてキチジローの故郷、五島列島へ。

「形えるもの」を欲しがる民、怯える神父。

仏教でいえば、ダルマでなく偶像、空ではなく色に執着している。それでは真の安寧は得られないだろう。

民が善良であるだけに悲しい。

◆キチジローの過去。

踏み絵はできない。でも死ぬ覚悟もない。弱く無垢なキチジローの家族が苦しみと共に残酷に殺される。それを見るしかできないキチジローの姿がただ悲しい。

どうしようもない奴であるキチジローの苦しみが悲しい。懺悔が救いになっているのだろうか…

◆ふたたび村へ

役人が来て長老を捉える。

役人も冷酷悪人ではない。村人が善良であるのもわかってる。

でも、規則を乱す奴は、排除しないとならない。キリストの教えが問題というより、彼らの裏にある国と、組織だった行動が問題なのだ。

村人たちが個々でひっそり信仰してたならこんな事件にはならなかっただろう。

仕事人としてなら、私も役人たちと同じ判断をするだろう。多くのために少数を切り捨てる。それが世俗のルールだ。

ただ役人も、迫害が楽しいわけではない。迫害は面倒で心が晴れないことなのだ。だからうまくごまかしてみせて、静かにしていてほしいのだ。

だがその思いは村人には届かない。それが悲しい。

神父に出て行ってもらうかで村は揉めるが、神父を守ることにした村人は、長老と敬虔な信者2人のほか、あと1人を犠牲に出すことに。ここでよそ者のキチジローを推す村人と拒否するキチジローで争いが。やっぱり死にたくない。信者たちの本音が見える。

◆モキチ

敬虔な信者のモキチは、感謝の言葉とともに、みすぼらしい十字架を神父に与える。モキチの信仰に応えられるだけのものを与えられただろうかと涙する神父。ここは泣いた。

モキチが神父に渡した十字架は「形あるもの」だが、実際に渡されたのは「形のないもの」だろう。

村人たちは踏み絵にのぞみ、神父のいうとおり踏む。が、続いて十字架に唾を吐いてマリアを淫売といえと言われ、キチジロー以外はできない。

波高い海に磔にされる一同。

神への言葉を唱え死ぬ長老。賛美歌を歌いながら四日間苦しみ、死んだモキチ。

神父も村人も見守るしかできない。悲しい。

ここでも役人たちはまったく楽しそうでなく辛そうなのがまた悲しい。

◆再び五島へ

村人たちを危険から避けるため、2人の神父たちは別れ別れに。主人公神父は五島へ。

だが、かつて訪れた村は壊滅。神父と接触したために滅ぼされた?

その後、キチジローに助けられ、そして敵に売られる。

キチジローは悪びれず、ひたすら許しを請う。まるでユダのくだりのよう。

捕らえられ、貧しい百姓キリシタンと会う神父。現世があまりにつらく、死んだらパライソに行けるということを支えにしている百姓たち。

それはキリストの教えと違うけど、誰がノーと言えるのか?肯定する神父。

◆日本の役人と対面

英語で話す役人、母国語で通す神父

百姓を、自分で何も決められない愚か者と評する幕府の高官、井上様。

それが民であり人間、迷える子羊で救われるべきものですよね。我々ホモ・サピエンスの特性でもある。

流暢に異国語を操る通訳は、神父から言葉を学んだという。が、自身の師を、日本語を学ぼうとせず日本のもろもろを軽蔑していたと評する。

そう、この一神教の傲慢さが、日本人は嫌いなのさ。

教えの内容や神父個人の資質ではなく、組織的な問題なのだろう。

宗教が権力と結びつくこと、形あるものを追い求めることは、本当に醜いものだ。

主人公を他の奴らと同じで傲慢、転ぶだろうと評する通訳。

はげどう。

傲慢=正見がない、自分しか見ていない人が、正しく世界を見てない人が世界を見たら?

◆牢獄

幕府側には何人も異国語を話す人がいるのが印象的。いきなり串刺しとかしないので、かなり友好的な印象。

でも当然つっぱねる神父。この一神教のマッチョさはウザいと思うと同時にすごいとも思う。基本仏教にはこういうマッチョさはないので。

教えを習いに異国へは行っても、布教はしないし、こういうふうになったら素直に従うような。現ダライ・ラマの態度が示すように。

でもチベットでも皆がダライ・ラマと同じではない。いろんな事情もある。

世の中難しい。

踏み絵。

役人たち、ここでも、形だけだよ、ちょっと踏んだら解放だからと、信じられない好条件を示すが、百姓たちはできない。

彼らはあまりに無垢で、それゆえ未来への知見がない。

だから苦しむ。…ひどい。

百姓たちが1人残して撤収。彼は番人と世間話してる最中に、いきなり斬首。泣き叫ぶ百姓たち。

ここでも死への覚悟はないことがうかがえる。

とばっちりを食うのはいつでも一番弱い人たちなのだ…。

◆またまた役人と対峙

キリシタン問題の背後に国際問題、政治問題があることが明らかに。神父はイマイチわかってない様子。日本ではキリスト教は根付かないとも。この辺はなぜなのかイマイチ自分はよくわからない。シリアスな仏教だってあんま根付いてない。神道も形骸化だし。

曖昧な文化だから?

◆同僚の死

今日は海辺へ。

案内する役人の笑顔がなんともいえない。

そこへ同僚と百姓が。簀巻きにされる百姓。転ばず、百姓を追いかけて死ぬ同僚神父。もはやプライド根比べな気もするが。

◆師との再会

寺での再会。

ここでの仏教描写、我が師は醜悪と言ってましたが同意。まさに形骸。形あるものだけを追いかけた、なれのはてという印象…辛い。

これがたまたま再現したらこうなったのか、狙ってやったのかわからないけど、どっちでも辛い。

師と神父で語られてることが、形あること、ないことについてなので、余計来る。

形とかマジでどーでもよくね?

仏教があるからキリストいらね、と言われても、非常に微妙に感じた。

◆転び

恐れていた穴釣り描写。そこまでエグくはなかったが、助けを求める百姓たちの苦悶の声が辛い。

覚悟を決めた、自業自得な方々はおいといて、そういうのがなく、なんとなーく流され巻き込まれた無垢なる人が苦しむのが辛い。

神父は転ぶ。

◆その後

日本人として余生を送るが…

召使いのキチジローがもっていたもの、そしてこの神父が死の間際持っていたもの。

形ないもの、人の心なんて、他人からはまずわかんないよね。

◆まとめ 「形のあるもの」と「形のないもの」

信仰。

我々仏教徒なら、ブッダの教えであるダルマへのコミット具合や、日々座って瞑想してることとか。

そういうのは外から見えない、見えにくい。

なんらかの儀式や特徴的なもので、ある程度可視化はできるかもだが、一番大事なものは見えない。

なぜなら、一番大事なものは形のないもの、物質的でないもの、色でないものだから。

これはキリスト教とか仏教とか、宗派問わないものだろう。

この、一番大事なものは見えないというのが罠だなあと思う。

三大宗教は、偶像化を固く戒めてたはずなのに、イスラム以外は見事に偶像化しまくっている。

人は、放っておくとわかりやすい形を求めてしまう生物なのだろう。

この映画は、

信仰や戒律、ある教えといったものを、

人生の最も大事な柱に据えた時、

誰もが直面するであろう問題を描いていると思う。

世の中は不平等で苦に満ちている。そんな中、

死と、苦しみと、どう向き合えばいいのか?

我々は嘘をつけるので、心の中は可視化できない。大事なものは見えない。

どうやって、自分がコミットしているものを実現し、向き合っていくのか?

重い問題を突きつけられたなと思う。

自分の場合は、あらためて瞑想で得られる智慧、正見を、大事にすること。

日々、気づいて生きること。

そのために戒律を守ることだなと思った。

また、自分は踏み絵は平気だろうが、蚊を殺せと言われたら…苦労すると思う。できるだろうか?

なぜなら不殺の戒律が我々にはあり、私はそれを日々まもっているからだ。

けど、普通の日本人は夏になるとバンバン蚊を手で潰してるわけで、まさに蚊を殺すか否かなんてどーでもいい問題だろう。

だが、他人がどう思おうが、自分はきっと辛いだろう。

私は、不殺の戒律を、とても大切なものと考えているからだ。

このように、宗教で大事なことは、その宗教と無関係な人にとっては、どーでもいいことなのだと思う。

けど、その宗教の人にとっては、そのどーでもいいことは、人生の大事なものを凝縮したようなものなのだ。

それこそ形だなとも思うが、我々が大事なのは、入れ物ではなく、中に入ってるもので、でも、その中に入ってるものは、なんていうか形あるものである器がないと存在が難しかったりするのだ。

この、形あるものと、形ないものの区別が繊細なので、我々は苦労するのかもしれない。

私の場合は、瞑想でもたらされる正見が助けになると知ってるので、座るしかないなと改めて思った。

そして、信教の自由はとても大事なことだ。

すべてのひとの形ないものが尊重される世であってほしいと改めて思った。

わたしが幸せでありますように。

わたしが苦しみから救われますように。

このわたしは、個別IDを持つ私であると同時に、これを読んでいるあなたでもある。

映画の中の人物たちが、苦しみから救われていますように。